明治前半の建築技術

日本では、古来から建築物の構造は木造が大半であり、それらの技術は大工、棟梁らによって経験的に伝承されてきました。
これに対して、日本に初めて欧米の建築技術が導入されたのは、安政4年(1857年)に徳川幕府の長崎製鉄所がレンガ造り、石造により起工されたときからといわれています。
この後、レンガ造り、石造などの欧米技術による建築が、徳川幕府、有力な藩、明治政府の工場等として建設されていきましたが、これらは、幕府や明治政府の御雇外国人技術者の直接の指導によるものでした。
レンガ造り、石造の建築技術は、明治時代に入り、大蔵省土木寮や工部省営繕局に受け継がれていきます。大蔵省土木寮は、明治元年(1868年)に始まる行政組織で、明治政府の成立期にあって官庁施設の建築、河川の改修、橋梁の架け換えなどを行っていました。銀座レンガ街計画は、当初この大蔵省土木寮によって実施されました。

レンガ生産は明治30年(1897年)前後から、レンガ建築の普及とともに発展します。
大正前期にかけて、日本のレンガ生産はピークを迎えましたが、明治24年(1891年)の濃尾地震によりレンガ造りの建築物は大きな被害を受けたのです。さらに明治後期には鉄筋コンクリート造や鉄骨造が導入されます。そして、大正12年(1923年)の関東大地震により、レンガ造りは壊滅的被害を受け、レンガ造りはその時代を閉じるのでした。

もちろん、レンガ造りの時代といっても、多くの建築物は伝統的な木造だったのですが、しかし、それらは、現在の木造のように筋交等を多く用いるものではなかったため、耐震的に不利な面を持っていました。
従来の日本の木造の耐震性についての疑問は、明治初期の御雇外国人技術者からも指摘されていたのですが、しかし、だからといって彼らは、木造に代わり、レンガ造りを採用すべしとの性急な主張もしませんでした。彼らにとっても、地震のない西洋のれんが造の技術がそのまま地震国 日本に用いられることに不安があったのではないでしょうか。日本のレンガ生産技術、品質、施工に対する不安もあったと考えられています。こうした不安もありながら、明治政府は新時代の建築構造としてレンガ造りを選択したのです。
都市の不燃化を目指したことがその一つの理由でしたが、耐震性の不安を指摘された木造の改良にはなお時間が必要だったこと、そして、なによりも文明開化を目指し、一日も早く先進欧米諸国に追いつくことを目標とした明治政府にとっては、政府の主要施設は旧来の木造とするよりも欧米技術であるレンガ造りに託すべしとの考え方があったのだと思われます。

2020年10月06日