明治維新と東京の都市改造

明治維新成立後、明治政府のもっぱらの課題は、欧米列強諸国に対抗しうる国力を早期に育成し、独立国家として自立することだったので、欧米にならって政治体制を近代化することを求めました。

この日本の近代化への要請は、法制度の分野では、日本の法制を西欧法に従って整理し、近代的な西洋の法制を日本に移植することとして働き、都市・建築の分野においては、新生日本の首都である東京の都市構造の改革を目指すものとして働いたのです。

このとき、東京の家屋の大半は木造であり、この都市の弱点の一つは「火災に弱いこと」でした。
江戸時代、この都市、すなわち「江戸」は、数多くの大火に見舞われました。江戸にとって、火災は厄介な代物ではありましたが、それも数多く発生するとなると、社会はそれに対応した仕組みを作っていったのでした。
火消しをはじめとする消防制度はもちろん、焼けた後に建築物を立てるには、大工など多くの職人を必要とするし、材木などの建設資材も必要になる。そして、その流通のための商人まで必要でした。
ことは江戸だけではおさまらず、木材をはじめとする諸藩の商品は、江戸の火災により需要が喚起される仕組みになっていたのです。つまり、江戸の火災は、これに対応した、人と仕事と物流システムを確立していたのです。
こうした仕組みは一度作られてしまうと、今度は火災を必要とするようになります。江戸大火の原因に放火が多かったのも、こうした仕組みと無関係ではなかったと言われています。鎖国による閉鎖経済下における都市大火は、内需の喚起と建設・生産技術の伝承という役割を果たしていて、江戸時代は定期的な都市大火を求めていたのでした。
しかし、江戸時代の大火と建設のサイクル(焼けては建てる、建てては焼けるというサイクル)は、鎖国中の徳川幕府には都合が良い平衡状態を作りだしましたが、開国し、欧米列強諸国に追いつくために産業・軍事・教育等を拡大する必要があった明治政府にとっては、これは是非とも克服しなければならない問題でした。焼失と建設の中に無駄に消費される労力と資源を救い出し、これを国力の拡大のために振り分ける必要があったのです。かくして、明治政府は、都市大火を克服する戦いに挑みます。

江戸は、幕末期2,000,000人近い人口を持っていましたが、明治政府の成立によって、参勤交代制がなくなるとともに、諸藩の武士やその家族は国もとに引き上げ、それらを顧客としていた商工業者たちも地方へと離散します。これにより東京は一時期大変なさびれ方を見せました。明治初年、東京の人口は、かつての3分の1、約600,000人に減少したといいます。

しかし諸官庁が東京に設けられ、 新政府の基盤が整うにつれて、人口は東京に戻り、東京は日本の首都としての体裁を整える必要にせまられ始めます。
首都の整備は、日本の文明開化をはっきりと顕示すること、および、列強諸国に日本を文明国と認めさせ、不平等条約の改正を有利に進めること、の2つの意味を持ち、明治政府は東京の市街地改造を積極的に進めることとなります。
法律の分野では、憲法の制定を含んで、西欧にならった法制度の整備が緊急課題となっており、明治18年(1885年)に内閣制が成立すると、すぐに憲法と関係法令の原案起草の作業が始まりました。その結果、明治22年(1889年)、大日本帝国憲法が制定され、明治23年(1990年) 11月29日に帝国議会が開会、この日から大日本帝国憲法が施行されています。

2020年10月01日