市区改正は、明治時代から大正時代に行われた都市計画、都市改造事業です。
幕末以来、諸外国との貿易に伴い流行を繰り返していたコレラ、天然痘、発疹チフス、赤痢などの伝染病の流行が一層激しくなり、更に市街地の大火もこの頃頻発していました。
道路交通については、明治5年(1872年)に走り始めたという乗合馬車が普及。広く路線が設定され、明治15年(1882年)には、軌道を施設して馬で客車を引く馬車鉄道も開業して急速に路線を延ばしつつありました。道路交通の発展に伴うこうした変化と、従来からの狭い道路との矛盾は深刻となっていきます。
これを受け、政府はまず、東京の街を線引きして、都市改造を先に行う所とそれ以外を分ける計画を立てました。中心的な市街地を定め、そこでの建築構造をレンガ造り、土蔵造、塗屋造などに制限したのです。この計画には、それらの防火的建築物を建てる財力のない者を追い出し、裕福な者のみを集めて防火の実をあげ、その地域の繁栄を目指すという側面もありました。
明治21年(1888年)2月、東京市区改正条例案を作成。
これを内閣は了承しましたが、元老院は、財政難を理由に反対し、廃案の決議をしました。しかし、内務省がこれを押切り、內閣は条例の制定を決めたのです。
明治21年(1888)8月、東京市区改正条例発布。
日本最初の都市計画法制であった。この条例では、市区改正に関する権限、手続き、財政、財源などが定められていました。