都市計画法制制定への機運

明治21年(1888) 日本最初の都市計画法制である東京市区改正条例発布
明治22年(1889) 市区改正事業が開始。同年に大日本帝国憲法が制定
明治23年(1890) 帝国議会が開催され帝国憲法が施行される

この頃から、憲法をはじめとする国の基本的な法律の整備がされ始めました。
こうした法制度等の整備は、日本自身の社会制度を確立することはもとより、列強諸国との不平等条約の解消という動機が背景にあったのです。新しい日本の首都 東京の市区改正も、都市の近代化をはかり、その体裁を整えることで、日本の近代化の実現を顕示させ、不平等条約解消への一助とするもくろみでした。

しかし、東京市区改正事業が開始されたといっても、数年にして多くの問題に直面しました。それは主として財政問題であり、事業より焼失跡地を優先させたため、財政難から、事業開始後10年たっても完成した道路は一本もなかったといいます。
その間、人力車、馬車などの急増から交通問題は日ごとに高まりましたが、もともとの財政が苦しいうえに物価・賃金は上昇していきます。

明治27年(1894年) 日清戦争が始まる。
日清戦争の戦費による財政緊縮などのために、事業は難渋した。
明治28年(1895) 日清戦争終結。
国情は一変し、市区改正の機運は高まり、速成をもってこれを実施する
こととなった。
明治30年(1897) 市区改正委員会は公債1,500万円により速成計画を実施することを建議する。

この公債も財政上問題でした。速成計画を実施するには市区改正条例の改正が必要となり、改正案が帝国議会に提出されますが、結局否決されてしまいます。
理由は、やはり財政問題でした。結果、東京を新生日本の首都として改造しようという100年の大計ともいえる市区改正の考えは縮小されたのです。

明治36年(1903年) 最終的に縮小された計画が告示される。

こうして市区改正事業は改めて始められようとしましたが、明治37年(1904年) 日露戦争が開始され、財政緊縮により計画は再度中断。翌年、日露戦争が終結すると市区改正は一刻の猶予もならなくなっていました。
なぜなら、日清・日露の戦争を経て東京の都市は大きな変化をとげていたのです。

例えば、人口密度をみれば、区部内平均で明治30年(1897年)から40年(1907年)の10年間で、1ha当り187人から276人に急増していたといいます。明治36年(1903年)に新橋〜品川間で運転を開始した路面電車は急速に拡張され、人力車・馬車から電車へと交通機関も変化していました。
日露戦争は東京市区改正事業の中断を招いたものの日本の国威を世界に発揚し、同時に日本に産業革命をもたらす契機となりました。動力源の発達や電車などによる交通機関の発達等により各種の産業が伸張。これに加えて、大正3年(1914年)から始まった第一次世界大戦は、日本の産業の発達に拍車をかけ、都市の変化に大きな影響を与えました。それは、この大戦中にヨーロッパの工業が停滞し、その製品の不足を日本製品が補うこととなったからでした。それが日本の都市における工場の増加となって現れます。大正元年(1913年)に15,000あまりにすぎなかった日本の工場数は、大正10年(1921年)には、87,000に達していたといいます。これらの増加した工場の大多数は、交通の便がよく労働人口の確保できる場所、すなわち、大都市に集中したのでした。当然、人口も大都市に集中。大都市はますます膨張し、混乱も生じてきていました。
工場、人口の増加、交通機関の発達による都市の膨張は、従来からの市町村などの行政区分を越えて起こりました。こうなると古い市町村などの枠を越えた大都市化現象に対応できる都市政策と制度が必要になっていきます。

こうした大都市化現象は、東京はもとより、大阪、名古屋、神戸、横浜、京都などでも著しくなっていました。
大阪や名古屋では、明治時代から街路、水道などの都市施設整備を行ってきてはいましたが、都市の抜本的な改造には法的な根拠と財政的な保証が必要だったのです。そのため「東京市区改正条例」という法制により都市改造を行っていた東京を別として、他の大都市では、都市計画法制の制定を強く望むようになりました。
大阪市議会は、明治44年(1911年)には、市区改正に関する法令の制定とその調査委員会の設置を要請する「大阪市区改正二関スル意見書」を内務大臣に提出。名古屋、神戸でも市区改正委員会の設置などの動きがありました。
ここに至り政府は諸都市の要望に応えるべく、都市計画の法律の制定準備にとりかかります。政府は、新たな都市計画法制を制定するのは容易ではなく、また各都市からの緊急の要請にも間にあわない恐れがあると判断して、とりあえずの措置として、それまで東京市のみに施行されていた東京市区改正条例とその付属法令を大阪、名古屋、神戸、横浜、京都の五大都市へ準用することとして、これを法律で公布しました。大正7年(1918年)4月のことでした。

2020年10月12日